『うつし絵』 江戸川乱歩
(昭和12年5月号「探偵春秋」/講談社『蔵の中から』より抜粋)
3月10日の夜、挿絵画家協会の主催で神田明神の貸席に、明治時代の「うつし絵」を偲ぶ会があった。演者は結城孫三郎一座である。 「うつし絵」は僕の子供の頃の名古屋では「影絵」と呼んで、広小路通りの空地などに小屋がけをして、よく興行していたものだが、映写幕の真黒な中へ赤青黄と、丁度ネオン・サインのようなドキドキした原色の、おいしそうな色彩を施した幻灯絵の人物が、ヒョコヒョコと現れて、カタカタと首や手足を動かし、斬りつけられると、カタンと倒れて傷口から真赤な血を吹き出したり、映写幕一杯の生首が現れて、口から血をたらしながらゲラゲラと笑ったりする、あの活動幻灯の不思議な魅力は、その当時のパノラマ館、博覧会の旅順海戦館、八幡藪知らずの化物屋敷、黄花園の菊人形、チャリネの曲馬団などと共に、僕の幼い頃の幻想と怪奇への甘い郷愁になっている。
僕にとって殆ど三十年ぶりに、その「うつし絵」が見られるというので、例によって少し気分の悪い日であったけれど、丁度来合せていた友人を誘って、その貸席へ出かけて行った。 結城孫三郎氏のお父さん(或は祖父であったか)が、絵心があって、明治の初期に製作した種板の内、小幡小平次の一幕と、皿屋敷の一幕だけが、大していたみもせず、生々しい彩りのまま保存されていて、その二つの場面を孫三郎一座総がかりで演じて見せてくれた。 幕のうしろの楽屋には、古風な木製の幻灯器械が八つばかりズウッと並んでいて、その一つ一つの画面が書割りにもなり小道具にもなり、各登場人物にもなるので、例えば火の番の人物が登場する場合には、拍子木をカチンカチンと打ち鳴らす仕草は、種板の仕掛で一方の腕を活動させるのだが、歩行は幻灯器械そのものを動かすことによって現わすという調子である。 小平次が斬りつけられて、段々血みどろになり、しまいには紅生姜のようにグッタリと動かなくなる無残絵の場面、水中に投入れられたその死骸が、太鼓のどろどろにつれて、朦朧と水面に浮んで来る怪談の場面、それから皿屋敷では、道具だての井戸の中から、お菊の幽霊が徐々に現れて来る仕掛、井戸側を出離れた幽霊が空中に漂い、段々遠方に行くに従って小さくなり、しまいには一寸位の竜の落し児みたいな可愛らしい姿になる焦点移動の技巧、その小さな幽霊が、書割りの二階家の廊下を、黒い影になってスーッと目的の部屋へ辿るところ、遂に目的の部屋に達して、障子の隙間から忍び込み、相手の男を喰い殺すところ、するとキァッという悲鳴と共に、二階家の小さな障子の一枚が倒れて、その部屋の障子一面に真赤な血しぶきが流れるところ。江戸末期から明治初年にかけての無残絵には、残虐のミニアチュア、血みどろの恐怖の微小化とでも言うようなややユーモラスな非現実性が一つの迫力となっていたように思うのだが、このお菊の亡霊人を喰う場面も、実に可愛らしい残虐ミニアチュアの面白さであった。 演技が終って、孫三郎君のうつし絵由来話を聞いたが、それによると、同君のお父さん(或は祖父)という人は、小舟に幕を張り幻灯器械を備えつけて、両国の涼み舟の間を漕ぎ廻り、客の求めに応じて、様々の外題のうつし絵を演じて見せ、隅田川名物として大いに流行したということである。 この人は、本職は浮世絵師なのだからうつし絵の種板もなかなかよく出来ていて、国貞えがくところの芝居絵という趣きがあり、僕の子供の時見たものなどよりは、余程精巧な出来であった。 又その人は余程からくり好きの性格であったと見え、うつし絵を幕や壁に写すのでは面白くない、この絵姿を何もない空中に現して見たいものだと考え、妙な仕掛を発明したということであった。それは、長い竹竿の節を抜き、錐で一面に穴をあけ、その竹筒の一方を大きな湯沸しにつなぎ、グラグラと湯を沸かして、竹筒の無数の穴から蒸気を吹き出させ、その白い蒸気の幕へ、うつし絵を写すという、甚だ奇抜な趣向であった。この趣向で幽霊などを写すと、如何にも朦朧として真に迫り、喝采を博したということである。
その頃らしい、おっとりとして稚気のある想像力を、物懐かしく面白いことに思った。 |