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日仏演劇コラボレーション "屏風" Les Paravents

屏風 ちらし「屏風」は、フランスの二つの国立劇場と結城座、世田谷パブリックシアターの共同制作企画です。
作品の題材は、世界的に著名なフランスの小説家、劇作家ジャン・ジュネ(1910〜85)の戯曲『屏風』で、それをもとに日仏のスタッフと、フランスの俳優、そして結城座の人形遣いが集まって、日仏の舞台芸術の伝統を背景にしながらも、両国にこれまでなかった新しいかたちの舞台作品作りを致しました。
上演は2002年4月にフランスのパリ、ブレスト両都市で幕を開け、7月には東京(世田谷パブリックシアター)、8月にはザルツブルグの国際演劇祭に参加し、各地で絶賛を博しました。さらには同年10月のフランス公演、そして2004年1月の世田谷パブリックシアターでの再演をもってひとまずの終了を迎えました。

作品ノート
原作 ジャン・ジュネ Jean Genet
脚本・演出 フレデリック・フィスバック Frederic Fisbach
舞台美術 エマニュエル・コリュ Emmanuelle Colus
照明・映像 ダニエル・レヴィ Daniel Levy
演出助手 アレクシー・ファシェ
翻訳 藤井慎太郎
出演

[フランス]ヴァレリー・ブランション、クリストフ・ブロー、ロランス・マイヨール、 ジュゼッペ・モリノ、ブノワ・レジヨ
[日本]結城孫三郎、結城一糸、結城千恵、畑崎潤一、伊藤肇、植松聡

共同製作 [フランス]コリーヌ国立劇場(パリ)、 クァルツ国立演劇センター(ブレスト)
[日本]結城座、世田谷パブリックシアター(東京)
上演日程 2002年4月24日〜27日(ブレスト)
2002年5月17日〜6月14日(パリ)
2002年7月4日〜7日(東京)
2003年10月 ル・マイヨン国立劇場(ストラスブール)、オルレアン国立舞台芸術センター、サン・ヴァンサン劇場、ジャン・ヴィラ―ル劇場(ヴィトリー・スエル・セーヌ市)
2004年1月29日〜2月1日 世田谷パブリックシアター
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『屏風』について フレデリック・フィスバック

『屏風』はジャン・ジュネの代表作であり、彼の生存中に出版された最後の作品である―かれは『恋する虜』の校正中に他界した。今回は『屏風』全体をそのまま演出するのではなくアダプテーションを施して原作の16場のうち8場を上演する。
この作品は、ジュネが文学から離れ、現実での政治参加を始めた頃の作品である。
『屏風』で、ジュネは劇場の外へ出たのだ。今回の共同作業とアダプテーションでは、特にこの動きに重点をおく。芝居が劇場で始まり"道で終わる"。文学や詩的フィクションから出発して、やがて世界に出て行く。今日、それが私の興味のある唯一のことである。
演劇が世界に、すなわち今日の芸術に入り込むこと。『屏風』はこの緊急の課題に対して材料を提供してくれるのだ。
作品のストーリーに関してだが、これはホメロスの『オデュッセイア』のような叙事詩だ。3人の英雄であるサイード、レイラ、母がアルジェリアの独立戦争中、領土を横切る。
彼等はそこで独立派に参加、そして裏切る。だが、このアダプテーションではフランスの歴史に直接関係の深い部分は全て取り除く。
『屏風』全体を上演するのが目的ではないからだ。私は、3人の英雄の旅、砂漠やドラゴンの隠れ家を通りながら、彼等を貧しい家から死の王国へ導く旅に執着している。
『屏風』は、ある意味では西洋演劇の歴史とその上演方法を批評している。その意味で、私は日本演劇の歴史の単なる模倣ではなく、そこから創造的な着想を得ながら、この芝居を演出できたらいいと考えている。
それはたとえば日本の"伝統的な"人形と語りの分離という人形浄瑠璃の偉大な原則の導入であるとともに、伝統のみに依存せずにダンスや音楽、映像芸術に影響を受けている今日の日本の演劇芸術からの引用も含まれる。それゆえ、今回は日本の演劇の偉大な伝統を引き継ぐとともに、それを常に現代の演劇に刺激的に応用する結城座の人々がこのプロジェクトに参加するのだ。


プロフィール
1966年生まれ。
パリ国立高等演劇学院卒業後、サン=ドニ市ジェラール・フィリップ劇場に俳優として所属。また大学や心理療法などの場で数々のワークショップを行う。
94年よりナンテールのアマンディエ劇場に俳優、演出家として参加、自作の脚本やクローデル、カフカ、ストリンドベリなどの作品を演出。98年7月フランス政府主催のワールドカップ関連事業"DU MONDE ENTIRE"(世界中から)において、平田オリザの『東京ノート』仏語版のリーディングを演出。2001年1月には『東京ノート』を演出上演し、フランス国内で高い評価を得る。
オペラ作品"FOREVER BALLY"など、演劇以外の分野での演出もあり、来年にはフランスの若手振付家ベルナール・モンテとの共同作品がアヴィニヨン演劇祭の招聘作品として上演される。
現在ブレスト市のクァルツ劇場の契約演出家であり、フランスの現代演劇会では最も注目される若手演出家である。

【劇評】コリーヌ国立劇場で、人形たちが『屏風』を骨肉化する リベラシオン紙(仏)2002年5月28日

16のタブロー、100人近い登場人物、死者の国や生きている者の国で錯綜する10以上の物語、村民、入植者、外人部隊の兵士、遊撃兵などの様々な国の主人公とアルジェリア戦争を根底にした全体像:『屏風』は、まさに、演出家フレデリック・フィスバックを呼び覚ました「途方もない作品」である。ロジェ・プランによる、オデオン座での初演から36年たった今は、極右が上演中止を要求するデモをすることもない。しかし、戯曲は、異端の臭い、血の臭いを少しも失っていない。
とくに、今も昔も、この戯曲は確実性というものを全て破壊している。善も悪もない。天国と地獄が入り混ざっているこの世界にあるのは、沸騰した人間性だけだ。ジュネ自身が以上に、彼の演劇の政治性が及ぼす範囲は大きい。同時に、各章に付けられた注釈のなかで、「読者は(…)私がいいかげんなことを書いていることにすぐ気づくだろう」とはっきりと書きながらも「ばかなことをたくさん言った」ことを自負している。フレデリック・フィスバックの芝居のなかでも、この注釈は実際に呼び起こされ、観客を笑わせ、「グラン・ギニョル」であることを思い出させる。
『屏風』をどう上演するか?ジュネ自身たくさんの指示を書いているが、それらは無理な道筋の場合もある。前書きの中で、ジュネは登場人物は「もし可能なら、仮面を付ける。そうでなければ、過剰な化粧をする(…)一番いいのは、いろいろな種類のつけ鼻を用意しておくことだ」と指示している。また、俳優には「自分自身の中に入り込み、人が世界に対して不在であるように、「客席に対して不在」でいる」ことの必要性を喚起している。また「俳優の視線の輝きの不在」についても話している。
フレデリック・フィスバックは、この不在を尖鋭化することによって、(ジュネの)指示を考慮している:コリーヌ国立劇場の舞台では、3人の登場人物(サイード、母親、サイードの妻のレイラ)は生身の俳優によって演じられる。その他の全ての登場人物は、人形によって演じられる。しかし、人形だけがいるのではない、なぜなら、操っている人形遣いたちもまた、私たちは見ることが出来るからである。また、「語り手」の役割を果たすふたりの俳優が、人形に声を貸している。
このように観客は、最初から、様々なレベルの解釈の方法に直面する。それに慣れるためには、少し時間が必要とされる。さらに、観客には人形によって演じられるシーンを見るために、双眼鏡が渡される。しかし、このルールを理解することは難しくない。 フレデリック・フィスバックは、堅固な方向性を打ち出しているからだ:戦争をしている国を横切り死へと向かって、叙事詩の中を旅する三人の家族を追っていけばいいのだ。そしてこの芝居の基調は物語るトーンであり、すばらしく幻想的で驚くほど静かな多数の物語が交錯している。
もしこのルールに参加が可能なら、私たちは、『屏風』を通じたこの長い旅(短い休憩を含み4時間)の虜になる。心を揺さぶられ、幻惑され、例えば死者の国へレイラ(ブノワ・レジョ)がやってくるシーンの素晴らしい影のダンスなどの、忘れがたいイメージを記憶の中に焼き付けられる。『オデュッセイア』や『マハーバーラタ』の普遍的な物語の地位にまで高められ、戯曲は新しい息を吹き返したように思える。そして、母親(ロランス・マイヨール)とサイード(ジュゼッペ・モリノ)のモノローグを通して、さらに詩的な広がりをみせる。
その他の場面での、二人の「語り手」(ヴァレリー・ブランションとクリストフ・ブロー)のユーモアと想像力は、素晴らしい。彼らは、コロスであると同時にソリストであり、演奏台の上で、10以上の声を使い分けている。そして、全体を通して、特にテクストの力が薄らいだ時(『屏風』では、全てが同じレベルにはない)、我々は、結城座の人形遣いたちの操る人形の妙技によって、卒倒させられる。彼らの作品への参加は、目立たせたり、エキゾチックな色を加えているという以上の際立ちを見せている:わずかに<ずらされた>、作品のもう一つのヴァージョン、幽霊たちの舞踊が、より人間的な方法で、同じ物語を語っているのだろう。


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